ダージリンへの旅の写真日記


1995年6月3日から10日迄名古屋の紅茶専門店のAさんと東京の老舗の日本茶屋のNさんの紅茶の仕入れの旅に同行してきました。全行程紅茶ブローカーのアテンドだったので一味違う経験をしました。これはその旅の写真日記です。


6月3日 成田からバンコク経由でカルカッタへ。機内は既にカレーの匂いで充満していた。離陸するとエアコンがききすぎで寒い。殆どの日本人乗客はバンコクで降りてしまい、インド人の出稼ぎ帰りかという乗客と入れ替わる。
夕方到着。空港ではどっと手が伸びてきて裸足の人々が荷物を運びたがる。出迎えの紅茶ブローカーのCさんに追い払ってもらう。Cさんは見るからに紳士で、運転手付きの国産車が待っていた。でも運転手が裸足でびっくりした。

空港の両替所のお金がすごく汚くて気持ちが悪い。1ルピーは約3円だった。

空港近くのエアポート・アショークホテルに泊まる。カルカッタのインド料理はとにかく辛いけれど、辛さの中に甘みがあると言うかすっきりしていてこくがあると言うか、とても美味しかった。ヨーグルトがこくがあるけど酸っぱいのは閉口だ。




6月4日 朝、オベロイ・グランドホテルでAさんの知人と紅茶を飲む。紅茶の味は期待したほどではない。でも日本のホテルよりはましかもしれない。立派なホテルであちこち口を開けて見てしまう。話題は何といっても阪神大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件だった。

 カルカッタの茶商と空路ダージリンへ。飛行機の出発が遅れて私たち日本人はイライラする。待ち時間にサモサとミルクティーを飲む。コンデンスミルク入りで頭痛がするほど甘い。バグドグラ空港は軍事基地内にあり、写真が撮れないし、ビザの審査が厳しい。

ガイドブックによると空港からダージリン市街地までは96kmあり、高度差が2,000m位ある。茶園が現れ始め、だんだん山道を登っていくが、雨季のため、わだちが掘れていて坂道が登れない。車は日本とインドの合弁会社のもので新しいのだが。いつの間にか近所の住民が沢山見物に集まってきた。途中で由緒あるTea Houseに寄る予定だったが、時間が無くなってしまった。

日本でも有名な茶園の看板を見ながら山道を登っていく。高級茶の茶園は高度1,500m位の谷に多い。市街地は2,134mだ。だんだん、夕闇が迫ってきた。特別にダージリンクラブという茶園の会員制クラブに泊めてもらう。イギリスの植民地であったという雰囲気がここかしこに残る。滞在客は紳士的な感じ。使用人はネパール人ばかりだった。

部屋は一応スィートで広いが、電球が切れていて、キャンドルがおいてあった。シャワーのお湯はすぐ水になり、情けない。外では露店が沢山出ていて、セーターとか色々売っていて夜遅くまで人通りが絶えない。




6月5日朝食はイギリス式だった。
ネパール人の小学校の先生が通訳に来る。小柄でかわいい子だった。カトマンズで独学で覚えた日本語は上手だが、紅茶の専門知識はないので、難しい話になると英語でサポートが必要だった。
 恐ろしく古いオフロード車のハイヤーが迎えに来た。乗り心地は最悪だ。30年前のランドローバーが町中に駐車している。

午前中Chamongという人気の茶園に案内してもらう。マネージャーが信心深い人で工場内に「繁栄の女神」の絵やマーク(逆卍)があちこちにあった。Nさんによるとすごい旧式(明治時代)の機械らしい。水力発電で動かしているのが自慢だった。あずまやで紅茶を飲む。ストレートでお砂糖無しが美味しい。
ティーテイスティングをさせてもらう。最高の味のお茶に出会う。後日カルカッタの事務所に連絡してもらったら、トワイニングが年間契約で買い付けていた。庭師もいて、花が咲き乱れているマネージャーのバンガロー(イギリス風の邸宅)で奥さんのお手製のケーキでもてなされる。台所も見せてもらう。簡素で一昔前の日本とあまり変わりは無い。家中蝿が多くて閉口する。(このマネージャーはその後別の茶園に引き抜かれてしまい、紅茶の味も変わってしまった。)

Aさんはトイ・トレインに乗りたかったのだが、雨で線路が流れていて復旧工事中だった。
午後はGingという茶園に行く。工場は休みだった。ここの奥さんのサモサやミートパイは最高に美味しかった。ナプキンやティーコゼー等室内装飾までヨーロッパ風でおしゃれにしていた。ピアノもあり、生活水準がかなり高い。急に激しい雨が降ってきて驚く。





6月6日 午前中朝靄の中をAryaという茶園に行く。先ず、今日の分の給油をしてから、狭くて急で階段のような石畳の道を恐ろしく古いJeepで行く。運転技術も何となく不安を感じさせる。ガードレールなど無い道は狭くてスイッチバック方式というか切り替えしながら下るしかないのだ。エンジンが不調なのか空吹かししながら走る。そして下り坂はエンジンを切ってしまう。こんな地形のところでエコノミー・ランは止めて欲しい。茶園は地の底に行くのかと言うくらい道路から下って行く、実際に雲の下だった。
ダブルクラッチとかヒール・アンド・トーなんて運転技術は不可欠な地形だと思うのだが、そんなことは知らないのか、乱暴なクラッチ操作では車は坂を登れない。

茶園へは、浴衣を着ていったので、マネージャーの息子が写真を撮りに来た。ここの紅茶はこくがあるというか少し渋くて味が濃い。ストレートで飲むと、「それがダージリンの本当の味わいかただ」と褒められる。ミルクもでてくるのでミルク入りも試してみる。
Nさんが今回もお茶の木を見に行く。殆どの紅茶の本ではダージリンの茶園は中国種だけとなっているがアッサム種やそれらのハイブリットも多く日本茶の木も混じっているらしいが、素人目には違いが分からない。病気の予防のためやお茶の味を整えるためと説明された。製茶の仕方は素人目にも茶園によって随分違う。夫々特色を出すためにマネージャーが工夫しているらしい。

帰り道は雨で道が流れて車が登らなくなった。その上、ラジエーターホースも破れてしまった。トボトボと歩いて車の後を追う。雨が続くと茶箱を背負って道路まで急斜面を上がるらしい。茶園の中の道路の公的な整備費用も準税金的にお茶の値段に含まれているのでダージリンティーは高価なのだそうだ。

ダージリンクラブに戻り、寒くなってきたので洋服に着替えフリースをはおる。ここはやっぱりヒマラヤ山脈につながってるという実感がわく。地元の人は勿論、冬服だ。

午後から私たち夫婦は買い物部隊として残り、後の人たちはOrange Valleyと言うまたもや地の底の様な茶園に出かけて行った。ここは電話も無いのでキャンセルできないのだ。私たちはAさんの希望で町中を茶漉しを探し回る。結果的に買い占めてしまった。日本製の水性ペンとかも日本と殆ど同じ価格で売っていた。ここの貨幣価値は日本の30分の1なのに。だから、超高級品だ。


6月7日 カルカッタに戻る。空港でまた飛行機が出ない。空港の喫茶室で紅茶を飲む。美味しくない。コーヒーはネスカフェのインスタントだ。

カルカッタでは紅茶商のベンガルクラブに宿泊することになった。部屋がめちゃめちゃ広い(30畳位)。外はめちゃくちゃ暑い。エアコンの付近は寒い。でも天井の扇風機が取れてるので、部屋の温度がまだらだ。

Cさんの事務所に案内される。銀のティーセットで紅茶と生水が出てきて不安だったが、社交上恐る恐る両方とも飲んだ。ここでもティー・テイスティングをする。部屋は壁面が紅茶のサンプルの引き出しになっていて、酸化したお茶の独特の匂いで充満している。今日は通訳はいない。味わいを表現する専門用語を知らないので味覚の説明は難しい。インド人が最高だと思う味わいと日本人の好みがかなりかけ離れていることをお互いに発見する。


6月8日 今日は私たちはカルカッタの市内観光をする。カルカッタは本当に大都会だ。物乞いや不具者の子供が多い。「彼らはプロだから絶対にお金を渡してはいけない。」と言われた。商売用に生まれつき肢体不自由の子供を貰い子するそうだ。「希望の街」とかいう映画を思い出す。

駅(途中で滝のようなスコールに会う。市内に池のような水溜まりができる。)、ジャイナ教寺院、マザーテレサのサナトリウム、カーリー寺院、市場に行く。沙羅双樹の葉っぱで出来たお皿とスパイスとパパドを買いに行ったのだがライチーとか、マンゴーとかパパイヤとか果物が美味しそうだったので色々買った。インド人が大好きという羅漢果みたいな外観で柿のような味の果物は甘すぎて閉口した。

道路は信号が滅多に無いし、警笛を鳴らして我勝ちに走るので混雑している。ウィンカーを出す車も無い。変わりに手で合図している。バックミラーも見ているとは思えない。警笛がやたらうるさい。排ガスがすごい。市電とバスが衝突していた。バスの運転は荒っぽいと言うか最悪だ。




6月9日 荷物をまとめておいて午前中は花市場やヴィクトリア記念堂や博物館を見学し、お土産買いに走りまわる。花市場では結婚式用のレイや花束を作っていた。足元はごみだらけでぬかるんで汚くて臭い。露店で美味しそうなスナックを売っていたが、食中毒が心配で食べられない。博物館のひんやりした大理石の床でお昼寝している人が多い。気持ちは良くわかる。ベンガルクラブでCさんと待ち合わせ、ホールで紅茶をご馳走になる。内装はロンドンの博物館のようだ。ここに座っているとインドにいる気がしない。Cさんが空港まで送って下さる。あんなに良くしてくださったのに「旅の途中、至らない所があれば許して下さい。アジアは一つです。」と言っていた。カレー臭い寒い寒い飛行機で帰国する。また、バンコクで人種が入れ替わる。


6月10日成田着。そのまま、成田エキスプレスと新幹線で帰宅する。家に着いた途端、夫は風邪で発熱した。妻はそれから1週間も英語で上手く表現出来なくて悩む夢にうなされ続けた。


に戻る>
に戻る